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2009年2月

ホワイトソース

 最近、土居善晴さんの「おかずのクッキング」がマイブームです。

もともとクリスマスとお正月のレシピを書店で選んでいたら、この本が料理の先にある日本の文化にまで触れていたのですっかり気に入り、さっそく今年のおせち料理は、この本を参考に、いろいろ手作りでつくったのです。

それから、この本が料理番組のテキストだったと知り、それを見始めたら結構面白い。土井さんは最初はちょっとコテコテの大阪人やなあ、という印象だったのですが、見慣れるとノリが良くて大好きになりました。

その2・3月号の特集がホワイトソースで、さっそく、それをつくってみたら、グラタンもクリームコロッケも簡単に出来ました。

しばらく前からフレンチの家庭料理に凝っていたので、ホワイトソースもレシピに加わって、いよいよ、週末はナイフとフォークにワインばかりの食事になりました。

ボリュームがあるので、ちょっとおなかの辺りが気になります。

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川中島鬼神乃大太刀(かわなかじま・きしんのおおたち)

またまた、太鼓がドドン、と鳴って、狂言回し・金春亭湯之助(こんぱるてい・ゆのすけ)が登場。
「とうざい(東西)、とうざい、本日演じます題目は、川中島鬼神乃大太刀(かわなかじま・きしんのおおたち)でございまあす。
 時は、永禄四年九月。場所は信濃の国川中島でございます。島といっても山国のこと、千曲川と犀川が合流する三角系の平地でございまあす。
 その前の月、上杉謙信は一万三千の大軍を率いて越後から信濃の国に入り、川中島を疾走して千曲川をわたり、妻女山に陣を構えました。この知らせを聞いた武田信玄は、すぐさま上杉軍を上回る二万の大軍を率いて出陣。甲斐の国から信濃の国に入り、妻女山を横目に睨んで川中島を越え、千曲川のほとりの海津城に入りました。両軍は、互いに相手の領地側に入り込んだ格好になります。その間わずかに三キロほどの距離。それから互いににらみ合いが始まりました。すでに過去三回、両軍はここで戦いましたが、いずれも決定的な勝敗はつかず、ここで改めて勝負となったのでございまあす。」

第一幕 川中島 海津城
「十日過ぎても謙信は動かぬ。こちらから攻めるほかあるまい。」
信玄はそう独言(ひとりご)ちて、馬場信春にあるはかりごとを命じた。名づけてキツツキ作戦。
 二万の軍のうちの一万二千の別働隊を馬場と真田幸隆が率い、妻女山の謙信の陣を夜襲。不意を突かれた謙信軍が敗退して川中島から越後の領地に戻るところを、信玄軍の本隊が迎え撃ち、別働隊とあわせて、敵を挟み撃ちにする、という作戦である。
 
 その夜、真っ赤な鎧兜に赤旗、風林火山の旗印を掲げた別働隊は、皆静かに、しかし、鞘と鎧があたるカチャカチャという音だけをさせて海津城を出て夜に溶け込んで行った。

 翌日早暁。馬場・真田の軍が妻女山のふもとで息を忍ばせている。山頂には、謙信の軍のかがり火が見える。
(今が眠りの一番深いときであろうよ。)
 馬場は真田と顔を見合わせあと、後ろを向き、油を塗ったたいまつに火をつけて高く揚げた。
「みなの者、行くぞ!」
「うおーっ!」
 それまで声を潜めていた軍勢は、そう叫びながら一気に山を駆け上った。
 しかし、謙信の軍は、静かだった。
(おかしい?)
 馬場がそう思いながら、山頂に着く。と、かがり火だけがこうこうと光るだけ。
 もぬけの空だった。
「や、やられた!」
 馬場が絶叫した。

第2幕 それから一時(いっとき、今の二時間)あたり後、川中島。空はようやく明るくなったが、濃い霧におおわれて、少しの先も見えない。

 挟み撃ちにしようと早朝に城を出て川中島に進んだ信玄の本隊は、それぞれ戦隊毎に整列をはじめた。
 両脇と後備えに騎乗の武将、内に近衆、真ん中に旗奉行、孫子旗、太鼓・ほら貝、やや後方中央に隊将。皆朱色の鎧兜であでやかなはずだが、今は濃霧で、隣前後の武将しか見えない。
 妻女山方面からは物音ひとつしない。
 その刹那、突如、地響きのような馬蹄の音が響いてきた。
 霧が晴れてきたと思うと、前方から「毘」と「龍」の旗印を立てた大隊が向かってくる。
「謙信軍ぞ!」
 信玄は慌てた。謙信は意表を突いて、深夜に妻女山の陣を出て、早朝、信玄軍に攻め込んできたのだ。
 編隊がまだ整わぬ信玄軍に、謙信軍の槍隊が突進してきた。そのために信玄軍の隊は箱が潰れるように崩れる。
「えいーっ!」「うおーっ!」各所で槍がぶつかり合い、兵の叫び声と土ぼこりが上がる。
 騎乗の信玄は態勢を整えるため、武将数十名とともにそこを離れた。

 その頃、謙信は単騎で、戦う大隊を横目に川のほとりに向かった。そして、馬から降り、川に兜を投げ捨てて白い布で頭を覆った。そしてまた馬に乗り、二尺七寸五分という大太刀の名刀長光を引き抜き、肩に乗せて走る。

 しばらくあと、白覆面の単騎の前を信玄一行の馬が駆けてゆく。
 白覆面は、「信玄!いずくにか在る!」と叫んで後を追う。
 信玄は、馬を躍らせて川を渡り、そこを逃れようとするが、白覆面は追いかけて川に飛び込み、
「こわっぱ、そこにいたか!」と太刀を振り下げる。
 信玄は剣を抜く間がなく、手にした軍扇でその太刀を受け、扇は折れる。
 白覆面、また一太刀振り下げ、信玄の肩を切る。
 配下の武将が信玄を救おうとするが、川の水の流れが速く、近づくことができない。
 白覆面が、さらに一太刀を加えようと刀を挙げた瞬間、
 武田の武将が投げた槍の柄が謙信の馬の首にあたり、馬が驚いていななく。
 その隙を見て、信玄は馬を操り、配下の武将も信玄を取り囲む。
 白覆面は(好機は過ぎた)ときびすを返し、疾風のようにその場を離れていった。

「殿、傷は大丈夫で御座いますか?危のうございました。」
 隊将の一人原大隈が心配そうに信玄に話しかける。
「不覚にもやられたが、大丈夫じゃ。」
 信玄の肩の衣は裂けて、血がにじんでいる。
「きやつ、何者でございましょう。」
 信玄は原をキッと見て。
「分からんのか、謙信じゃ。」
 原、信玄の驚いて、
「えっ、敵の大将本人ですか。・・大胆なおのこですね。」
「白頭巾から覗く目は鬼神のようでであった。その目に見られ、さすがのわしも体が動かなくなった。怖いやつじゃ。」
 信玄は、謙信が去った方をじっと見て言った。

 その頃、騎乗の謙信は、自軍に合流している。
「殿、どこされました?そのお姿。」
 配下の武将が白覆面姿の謙信を見て訊ねた。
「いや、ちょっとした遊びを楽しんでおった。」
「戦の最中にそんなお戯れを。」
「まあ、よいではないか、めったに出来ぬ遊びであった。それでは、また武田を攻めるぞ!」
ワハハハ、謙信は破顔一笑し、えいっ、と手綱を引いて武田軍に向かって駆けてゆく。

その馬上の姿は実に爽快であった。

川中島鬼神乃大太刀(かわなかじま・きしんのおおたち)、これにて幕でございます。

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池田屋世紀乃大捕物(いけだや・せいきのおおとりもの)

 またまた、太鼓がドドン、と鳴って、狂言回し・金春亭湯之助(こんぱるてい・ゆのすけ)が登場。
「とうざい(東西)、とうざい、本日の題目は池田屋世紀乃大捕物(いけだや・せいきのおおとりもの)でございまあす。
 時は、元治元年の夏。京の都には諸国から怪しい浪人が集まり騒然としております。それを相手に都の治安維持を一手に引き受けてるのが、松平容保(まつだいらかたもり)・京都守護職お抱えの新撰組隊士たち。
 数ヶ月前から、なにやら怪しい人物が頻繁に出入りしている四条木屋町の材木商・近江屋俊五郎の家を見張っておりましたが、近江屋の家から出てきた者をつけてゆくと、尾行を気にしながら、二条の長州屋敷の裏門に消えます。
 「ややっ、これはますます怪しい」と、隊士たちが近江屋の家に踏み込みますと、武具や槍、鉄砲などを隠し持っておりました。
 さっそく隊士たちは、壬生の屯所に近江屋を連れて行って尋問を始めます。」

第1幕 壬生 新撰組屯所  ときどき強風のために木々が唸る音が聞こえる。

 長倉新八らが、近江屋を尋問している。
「ええいっ吐け、お前は何者だ。」
「・・・」
 この怪しい手紙は何だ。長州藩の者とのやり取りに「この機会逃さず」とあるではないか。」
 普通の尋問では口を割らない。
 やむなく、近江屋を拷問にかけることになった。
 隊士たちが近江屋の両手をしばって、その縄を梁に吊るし、近江屋が半分ぶら下がるような格好にさせた上に、竹刀で背中を打ちはじめた。
「手の竹刀ダコを見れば、お前が商人でないことは明白。えい、えい、吐け!」
 痛いところを突かれた近江屋は「自分は浪人の古高俊太郎だ」と本名を名乗ったが、それ以外は一切口を割らない。
 これは並大抵の拷問ではだめだ、と拷問もエスカレートしてゆく。
 ささらで討ち、肉がとびちっても、それに塩水を掛けても、必死に苦痛に耐えている。

 土方歳三が出てきて「やむを得ん。責任は俺が取るから、最後の手段を使うのだ。」と隊士に指示する。
 皆、ちょっと嫌な顔をしたが、うなづいて、棚から、逆さ吊り用の綱と、足の裏に打ち込むための五寸釘と木槌、五寸釘に具える蝋燭を持ってきた。
 それを見た古高の顔の全面が恐怖に引きつった。

 半時ほどあと。古高は恐るべき計画を白状した。
それは、
○二週間先をめどに強風の夜、強の街に火を放ち、都を焼け野原にする。
○その騒ぎの中、宮中に上がるであろう中川宮と守護職を襲って暗殺。
○さらに、天皇を奪って長州の山口城へ連行し、一気に天下を乗っ取る。
というものだ。そのために、すでに、三条辺の宿屋に長州藩士や浪人三百名が潜伏していることも白状した。

 当時、新撰組は病気や怪我の者が多く、動けるものは、近藤勇、土方歳三、沖田総司、長倉新八、藤堂平助、そのほか数える者しかいなかったが、近藤と土方は、
「古高が捕まったことは、すでに長州側に知れ渡っているだろう、連中としても、ぼやぼや出来ず、すぐに事を起こそうとするのではないか」
「もしかしたら今夜にでも起こるぞ。その前になんとしても捕らえるのだ」
「これは一刻を争う」
と話し合い、まず土方が一隊を率いて、市中を探査臆しながら、八坂神社下の祇園会所へ走る。
 近藤もまた、沖田、長倉などを率いて出動。まず黒谷の守護職に取り急ぎ報告。守護職も驚いて各藩に厳重な警戒を通達した。
 それから近藤の一隊も、市中に走り、片っ端から宿の中を調べに回った。
 時はすでに夜。やがて、三条小橋北の池田屋という旅籠に、長州の藩士が密会しているらしいという連絡が入り、会津藩に応援の使いを出したあと、近藤、土方の各隊が池田屋に走った。

第2幕 三条 池田屋

 新撰組は池田屋の前後を厳重に固めた上、会津藩の応援を待ったが、なかなか来ない。「このまま、ここにいる釘付けになっておれば、他所で変事が起こりかねない」
「やむをえん」
 近藤は土方の顔を見てうなづいた後、池田屋の暖簾をくぐって
「宿改めである」
と怒鳴った。
 池田屋の主人は、それに大いに驚いて、二階に走った。近藤、沖田、長岡、藤堂が囚人の後を追って二階に上がると、長州人や浪人二十人ほどが皆刀を抜いて構える。
「御用お改め、手向かい致すにおいては、容赦なく切り捨てる」
と一喝、皆恐れおののいて後ずさりするが、一人が近藤に向かって切りかかる、とその刹那、沖田がこれを切り倒す。
 数名がこの隙に、と階下へ逃れ、近藤が「追え」と指図。沖田が追うが、そのとき大いに咳き込み、喀血して、戦線を離脱する。
 表に逃げる一人を長倉が追い、袈裟懸けで一刀に切り捨てる。
 便所に逃げ込む者には、板戸から刀を突いて串刺しにする。
 藤堂は垣根際より長州人に切られ、目に血が入って見えず、刀も刃こぼれして切るに切られない。そこへ長倉が助太刀に入り、相手の腰に切り込もうと刀を伸ばす、とその刹那、逆に受け止められて切り込まれる。
 長倉必死にこれを受けて相手と刀を交えていると、近藤が三度ばかり切り込みを受ける。長倉は、助太刀しようと向かうが、その間に長州人や浪人が大勢いてままならず、やっとの思いで、相手の肩先に切り込んで仕留め、近藤を助ける。
 外では、池田屋前の三条小橋で隊士が決戦している間に、池田屋の主人が、縛られている長州人の縄を解いて逃がしている。これに気づいた原田左之助、逃げる相手を追いかけ、槍で突いて仕留める。
 途中から守護職の会津藩、所司代の桑名藩、さらに彦根・松山・淀の各藩もこのテロ一味の逮捕に参戦したが、会津藩に即死五名、彦根藩に即死四名、桑名藩に即死二名、ほかの藩も死傷者を出す。
 半時後、ようやく世紀の大捕り物は終わった。新撰組が召し取った者は二十三名、討ち取ったものは七名、そのために、沖田の刀はぼうし(切っ先)折れ、藤堂の刀はささらのごとくなった。
 捕り物が終わると、新撰組の隊士はへとへとになり、屯所に帰ると酒も死んだように眠り込んだ。

 彼等は文字通り体を張って都を守り、しばし京都に平安が訪れたのである。

 池田屋世紀乃大捕物(いけだや・せいきのおおとりもの)、これにて幕でございます。

<ノート>
 池田屋の戦闘状況は、長倉新八「浪士文久報告記事」によります。

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早乙女貢先生お別れの会

今週の水曜日、東京會舘で早乙女貢先生のお別れ会が開かれました。

僕もお世話になった一人として参加しました。

会場は、東京會舘で一番広い9階のローズルームでしたが、お別れのために集まった方々で満杯でした。ペンクラブの僕の仲間も何人も来られてました。

祭壇というよりも、桃の花で埋め尽くされた”丘”の真ん中に、着流し姿で微笑む先生の全身写真が立てられ、その前に遺骨の箱。その下に先生のライフワークだった「会津士魂」全巻が並べられ、会津藩の「會」の字が描かれていました。

レクイエムの演奏はバイオリニストの佐藤陽子さん、お別れの言葉は、ペンクラブの阿刀田高さんと文藝家協会の伊藤桂一さん。

司会を務められた高橋ちはやさんのお話だと、早乙女先生は、奥様を夏に亡くされたのですが、誰にもそのことをおっしゃらずに9月に文芸家協会の会員の墓地に葬られ、その月に恒例の会津祭の騎馬行列に西郷頼母役で参加。ところが、10月下旬に急に悪くなって入院。ご家族ご親族がだれもおられないために、「早乙女一座」と呼ばれる、先生にもっとも近い方々8名が親身になってお世話をし、11月に主治医から「手術不可能な末期の胃癌で、余命半年~3ヶ月」と宣告されます。そして、それからは、8名の方々が「士魂の会」を結成して心を合わせて先生のお世話と後事を行うことを誓われたそうです。

その後先生は、しばらくは、雑談なさるほどお元気だったようですが、12月に風邪を引かれ、こじらせて肺炎を併発、意識が朦朧とされる中、「士魂の会」の方々が見取る中、眠るようにお亡くなりになられたそうです。

先生の秘書役を務められていた方は、涙ながらに「早乙女先生は、風のように去っていった」と語っておられました。

ご家族がおられない方なので、「士魂の会」の方々が、今後の一切を行い、早乙女先生の志を世に伝えられるとのお話でした。

早乙女先生は無宗教で、密葬は12月に、わずかに40人ほどしか入れない鎌倉の斎場で「士魂の会」の方々を中心に執り行われたそうです。

お別れの会も、読経など宗教色はいっさいなく、ご遺族代わりの「士魂の会」の方々が並んでご挨拶をされておられました。

献杯のご発声は浅田次郎さん。

早乙女先生は無欲の人で、常に人のために尽くしておられた、たたずまいも生き方も、孤高の文士そのものであった、ということは、挨拶をされた皆さんが口をそろえておっしゃっておられました。僕もまさにそう思います。

つつしんで早乙女先生のご冥福をお祈りいたします。

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屋島恋之引弓(やしま・こいのひきゆみ)

 またまた、太鼓がドドン、と鳴って、狂言回し・金春亭湯之助(こんぱるてい・ゆのすけ)が登場。
「とうざい(東西)、とうざい、本日の題目は屋島恋之引弓(やしま・こいのひきゆみ)でございまあす。
 時は、「1192(イイクニツ)つくろう鎌倉幕府」で有名な、源頼朝が幕府を開くしばらく前のこと。京の都は、「平家にあらずんば人にあらず」、おごれる者そのまんまの平家の武士たちであふれかえっておました。

第1幕 春、平安盛(たいらのやすもり)の寝殿
 神殿の真ん中に主(あるじ)の安盛、まわりに武人が座り、くつろいで春の宴(うたげ)の真っ最中。
「東国では頼朝が鎌倉に政庁まがいのものをつくったというが、たんなる田舎の役場にすぎぬ。われら平氏に背けば、すぐに蹴散らしてしまうだけだ、ワハハ。」
「平氏で一二を争う勇者の安盛様の顔を見れば、すぐに尻尾を巻いて退散しましょうぞ、へへへ。」
 下手には、那須野重高(なすのしげたか)、その子太一、与一がとともに酒を飲んでいる。
 重高は声を潜め、周りに気づかれぬように、
「太一、与一よ。家族が揃って安盛様の宴に出ることができるのも、これが最後と思えよ。」
 太一、与一が、
「心得ております。」「おります」
  重高は続ける。
「安盛様はそうおっしゃるが、頼朝様はなかなか侮れない人と聞く。義経様も頼朝様の仲間に加わり、打倒平氏を叫んでいると聞く。
 与一、分かっておるだろうが、お前だけは縁あって、義経様挙兵の時は、家来として参じることに決めておるのだからな。」
 重高はきわどい話をするが、周りはみな、勝手にワイワイ騒いでいるから、重高一家の話などまったく関心がない。
「承知しております。」
 与一は深く頭を下げる。
 
 重高は昔、与一が少年だった頃を思い出していた。
 地元、那須岳の温泉神社で、ある日、弓の奉納試合があった。
 重高が子供たちを参加させたところ、与一が大人たちを負かせて優勝。たまたまその試合を見に来ていた義経が与一を気に入り、試合後、父重高に「将来、平氏打倒のために立ち上がった際は、ぜひ与一を寄越すよう」依頼したのである。
 重高は、義経の依頼を了解した。彼は先の見える人物だったので、子供の太一、与一、それぞれを平氏、源氏につかせることで、どちらの天下になっても、那須野家一族が続くことを考えたのである。しかし、それは、将来、兄弟が必ず争わなければならない運命にさせることとなるわけだから、兄弟としてはたまったものではない。重高もそれから、物思いにふけることが多くなった。

 そのとき、安盛が、自分の娘、春姫を呼び、舞を舞うように言いつける。
「お春、春はお前の季節じゃ、桜のような見事な舞を見せてくれ。」
 春姫は、恥じらいながらも、舞台にあがり、扇を手に優雅に舞を舞い始めた。
 その姿を与一はじっと見つめる。春姫も与一をちらりと見る。
 与一と春姫は、以前からこのような宴席で顔を合わせていた。そして与一は、春姫を見初め、春姫もまた(凛々しいお方)と感じた。二人は惹かれあっていたのである。
 安盛もまた離れた二人をちらりと見る。彼も二人の気持ちに気づいていたのであった。

第2幕 屋島海岸
 沖では、数百に及ぶ赤旗を掲げた平氏の船がひしめきあっている。海岸では、義経率いる数十の騎馬武者が平氏の船をにらんでいる。
 
 数ヶ月前、木曾の義仲が後白河法王を奉じ5万騎の軍勢を従えて京に迫り、万事休すと、平家一門は幼い安徳天皇を奉りっていうより、むりやり連行して西へ西へと逃避行。安盛や春姫の一家、那須野高、太一親子なども一緒であった。平氏は、四国の屋島に行宮を築く。そこに攻め込んできたのが義経率いる騎馬の奇襲軍団。
 水軍を持つ平氏全軍の一族郎党は慌てて沖に逃れるが、義経軍が意外に少数と分かって、沖から義経軍を取り囲み、矢を射って攻める。義経軍も苦戦して、このとき義経の臣の一人、信夫の佐藤継信が義経の身代わりになって命を落としている。平氏軍も矢が尽きることを嫌い、それ以上攻めない。海岸の源氏、沖の平氏がにらみ合う状態が続いている。

 しばらくすると、平氏の船間から小船が現れた。小舟には、漕手のほかに武士が一人と舳先に美女が一人。美女の横には、金地に赤い日輪が描かれた扇を竿の先に挟んで船縁に立ててある。
  小舟は波間を縫って海岸に近づき、その距離が40間(けん)余り(約70メートル)ばかりなったところで、小舟の武士が源氏軍に向かって叫んだ。
「やあ、やあ、我こそは、平家にその人ありと言われた平安盛。ここにいる女は我が娘春姫である。源氏の方々よ。戦の余興を提じよう。誰か、この扇を狙って矢を射る勇者がおられるか。仕損じて女を射れば、武士として末代までの恥。それを恐れて最初から弓を射らぬとなれば、腰抜けである。勇者となるか、恥をかくか、腰抜けになるか、いずれを選ぶか!」
 この安盛の言葉を聞いて、義経軍にいた与一は愕然とした。もう会うこともないと思った春姫が、小船で的のそばに立っているのである。
 小船は波に揺れて上下する。かのエゲレスのロビンフッドが射止めたリンゴは、静止していたからこそ。この扇の的は波にあわせて不規則にあっちへこっちへ揺れ動いているから、とても射れたものではない。
 義経は、自軍の軍勢を振りかぇって、
 「だれか、名乗り出る者はおらぬか。」
 と聞く。
 騎上の与一はしばし考えた。
(あんな揺れ動く的などあたる分けが無い。仕損じれば、恥辱の問題以前に、春姫を殺してしまうではないか!それができるのは、自分だけかもしれない、よし。)
「私にやらせてください。」
「よし、与一、やれ。」

 与一は海岸から海の中に馬を進めて
「やあ、やあ。我こそは源氏一の弓取り、那須野与一なり。
 人一生において、必ず扇の的に向はざる時あり。我においては今なり。
 心願によって見事的を射てみせようぞ。もし仕損じて春姫を傷つけることあらば、人に再び面をむけることあたわず。ここで腹掻っさばいて果てん。」

 小船の春姫はおどろく。その顔を見た安盛は、与一に向かって、
「よくぞ申した那須野与一、敵ながら天晴れな物言い。もし仕損じれば、その首もらった。仕損じなく見事に的を射れば、この春姫はそなたの妻として進ぜよう。」

 この言葉にびっくりの与一と春姫。
「安盛殿、あい分かった。それではわが腕お見せしましょう。」
 与一はまずます緊張して手がガタガタ震えた。

 しかし、頭を軽くふって静かに息を吸い、弓を大きく引いて目を閉じ、
「天よ、願わくば、あの扇の真ん中に射させたまえ。二人の命を助けんと思し召さば、この矢外させたもうな。」
 目をカッと見開いて、えいっ、と弓を射る。

 矢はビューンと飛んだと思うと、扇の真ん中にバチンとあたり、扇が見事竿から墜ちた。
 固唾を呑んで見守っていた源氏、平氏の両軍はやんやの喝采。

 気丈にも竿の横に凛と立っていた春姫は、緊張がほぐれ、どっと腰を落とす。
 重盛は「さすがは、重高氏(うじ)が自慢するだけあって、与一殿の弓の腕は天下一品じゃ。」とひとりごちたあと、春姫を見て、
「お春、平家の時代はまもなく滅び、源氏の時代が来る。若いお前は与一殿と生き延び、幸せになれ。」
(えっ、)と父を見る春姫の目に涙がどっとあふれた。

  屋島恋之引弓、これにて幕でございます。

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