キリスト教と仏教

イースターおめでとう!

イースターは「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」です。

数日前、満月が夜空に鮮やかに浮かび上がっていました。だから、今日がイースターです。

この日、アメリカの新聞に掲載されるコミック”ピーナッツ”では、スヌーピーがイースター・バニーになって跳ね回り、イースター・エッグを配るシーンがよく登場します。

ウサギと彩色されたゆで卵はイースターの象徴です。

イースターはイエスの復活をお祝いする、キリスト教では最も重要な日です。

なぜイエスの復活をお祝いするかというと、キリスト教では、イエスの復活は人類の運命の前兆を意味するからです。

イエスが自ら十字架に掛けられて人類の罪を贖(あなが)われた、そして死に打ち勝って復活されたからこそ、イエスを信じれば、自分の罪も償われ、永遠の命を得ることができる、ということがキリスト教信仰の本髄だから、イースターはキリスト教で最も重要な日なのです。

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早乙女貢先生お別れの会

今週の水曜日、東京會舘で早乙女貢先生のお別れ会が開かれました。

僕もお世話になった一人として参加しました。

会場は、東京會舘で一番広い9階のローズルームでしたが、お別れのために集まった方々で満杯でした。ペンクラブの僕の仲間も何人も来られてました。

祭壇というよりも、桃の花で埋め尽くされた”丘”の真ん中に、着流し姿で微笑む先生の全身写真が立てられ、その前に遺骨の箱。その下に先生のライフワークだった「会津士魂」全巻が並べられ、会津藩の「會」の字が描かれていました。

レクイエムの演奏はバイオリニストの佐藤陽子さん、お別れの言葉は、ペンクラブの阿刀田高さんと文藝家協会の伊藤桂一さん。

司会を務められた高橋ちはやさんのお話だと、早乙女先生は、奥様を夏に亡くされたのですが、誰にもそのことをおっしゃらずに9月に文芸家協会の会員の墓地に葬られ、その月に恒例の会津祭の騎馬行列に西郷頼母役で参加。ところが、10月下旬に急に悪くなって入院。ご家族ご親族がだれもおられないために、「早乙女一座」と呼ばれる、先生にもっとも近い方々8名が親身になってお世話をし、11月に主治医から「手術不可能な末期の胃癌で、余命半年~3ヶ月」と宣告されます。そして、それからは、8名の方々が「士魂の会」を結成して心を合わせて先生のお世話と後事を行うことを誓われたそうです。

その後先生は、しばらくは、雑談なさるほどお元気だったようですが、12月に風邪を引かれ、こじらせて肺炎を併発、意識が朦朧とされる中、「士魂の会」の方々が見取る中、眠るようにお亡くなりになられたそうです。

先生の秘書役を務められていた方は、涙ながらに「早乙女先生は、風のように去っていった」と語っておられました。

ご家族がおられない方なので、「士魂の会」の方々が、今後の一切を行い、早乙女先生の志を世に伝えられるとのお話でした。

早乙女先生は無宗教で、密葬は12月に、わずかに40人ほどしか入れない鎌倉の斎場で「士魂の会」の方々を中心に執り行われたそうです。

お別れの会も、読経など宗教色はいっさいなく、ご遺族代わりの「士魂の会」の方々が並んでご挨拶をされておられました。

献杯のご発声は浅田次郎さん。

早乙女先生は無欲の人で、常に人のために尽くしておられた、たたずまいも生き方も、孤高の文士そのものであった、ということは、挨拶をされた皆さんが口をそろえておっしゃっておられました。僕もまさにそう思います。

つつしんで早乙女先生のご冥福をお祈りいたします。

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「キリスト教は進化論と共存できるか」

 久しぶりにキリスト教の話題です。

 新刊書の『キリスト教は進化論と共存できるか?』(教文館)を読みました。

 著者はフランシスコ・J・アヤラ氏、カリフォルニア大学アーヴァイン校の生物学・生態学・進化生物学の教授で、米国ヒトゲノム・プロジェクト審議会の顧問、全米科学賞も受賞したアメリカを代表する科学者の一人です。原著書名は "Darwin And Intelligent Design"であって、内容的には、進化論こそ正しく、アメリカの福音派の一部が進化論を否定する観点で唱えている「インテリジェント・デザイン」がいかに偽物であるかを主張している本です。

 そういう意味では、本書は、キリスト教と進化論の関係そのものはあまりつっこんで検討されておらず、タイトルから本書を手にした人には少し物足りない内容となっています。

 しかし、一方の進化論については、良く理解ができて、本書を読むと、たしかに、生物は神が直接創造したわけではないこと、人類は進化の過程で生まれてきたことが理解できるようになります。

 もし、神が人間を、生物を支配する者として、神に似せて作った、ということであれば、なぜ人間には、盲腸や尾てい骨があるのか?そんな不要な物があることひとつとっても、人間は神に似せられた完璧なものでなく、進化の過程で生まれた、いろいろと出来の悪いところもある生物であると思われます。

 それでも、著者は、科学と宗教は対立する物ではない。というよりも、科学と宗教は両立しないはずがない、なぜなら両者は、知識の重複しない領域になるからである、と主張します。

 僕としては、この辺の話をもうすこし掘り下げて欲しかったので、若干消化不良気味です。

 確かに、進化論は、宗教を否定するものでないのですが、これが一般的には理解されていません。しかし、キリスト者でも、進化論を肯定する人は多く、なにより、それを著したダーウィンも、自然現象を解明する中で神の存在を立証しようとした学者であって、その立場で進化論を著したのです。

 本書を理解するには、同志社大学21世紀COEプログラム「一神教の学際的研究」の2006年度「研究成果報告書」に収録されている桃山学院大学社会学部教授・松永俊男氏の論文「ダーヴィニズムと自然神学」が有益です。

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異端のキリスト教入門書・学研「キリスト教の本」

 学研の黄色の本、Book of Esoterica16 『キリスト教の本』(上・下)は、上巻「救世主イエスと聖書の謎を解く」が8刷、下巻「聖母・天使・聖人と全宗派の儀礼」が4刷ですから、おそらく日本で最も売れているキリスト教の本といえるでしょう。

 僕も先日、この本を買って読んでみました。聖跡や聖遺物などに関する珍しい写真が満載されているので、そういうグラフィカルな面では面白かったのですが、書かれている内容については、キリスト教に関して極論や異端の記述に溢れていて、はじめてキリスト教を知ろうとしてこの本を手にした方に大変な誤解を与えかねない本でした。

 たとえば、

 「イエスが処女マリアから生まれたなどというのは、もちろん後代の教会が創作した伝説である」

 イエスの奇跡彼が死んだ者を甦らせたという類の話は「みな後代の創作である」

 「死人が実体的に復活するなどということが起こるわけはない」から、イエスが復活した「史実などなかった」

 イエスの復活を信じることは「死後の世界についての憶測や願望を軸に空しい思弁を続けること」で「思い違い」

 イエスは自ら「メシア=キリスト意識をもってはいなかった」

などなどです。

 僕は、上に引用した記述そのものは否定しません。宗教とは、要は信じるか信じないかであって、信じる人にとっては、イエスは復活した神の子であるけれども、信じない人にとっては、そんなことはあり得ない話であって、信じない人が上の記述のような立場を取るのは至極当然だと思います。

 問題は、上記の記述がキリスト教の本と銘打った本書に結論として書かれていることです。こういう記述を読んで、だれがキリスト教をまともの理解できるでしょうか?

 これでは、本書はキリスト教の書ではなくて、キリスト教否定の書であって、これでは「看板に偽りあり」の書物です。

 僕は、キリスト教の本質とは、弟子たちによるイエスの復活の目撃体験にあると思っています。彼らは、イエスが刑死する際に彼を否定して離散しました。しかし、彼らがその後、別々にイエスの復活に遭遇し、最初はそれを否定したけれども、やがて復活が事実であると確信し、驚愕が歓喜に変わって、そこからキリスト教が生まれました。

 イエスの復活話は常識では考えられないことで、弟子たちによるイエスの復活の目撃体験を理解しないと、絶対に理解できない考え方です。

 しかし、本書は、僕がいま述べたことが触れられていません。

 この本質を理解しなければ、他のキリスト教のあらゆる知識を得ても、キリスト教を知ったことにはならないでしょう。

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佐世保銃乱射事件とキリスト教

 佐世保で銃を乱射して8人を死傷させて自殺した馬込という人物は幼児洗礼を受けたキリスト者で、自分が洗礼を受けたカトリック船越教会の敷地内で自殺したとのことです。

 なんともやりきれない思いがします。

 2年前のやはり12月に、日本最大のキリスト教主義大学である同志社大学の学生だった塾講師が、塾の生徒を計画的に殺害したときも同校OBである僕は心底がっかりしました。

 クリスマス前にこんな話題を取り上げるのは実に不本意ですが、これも現実に起こったことですからコメントしない訳にはゆきません。

 まず指摘しなければならないことは、一般の日本人にとってキリスト教は異質であるとの概念があるために、ことさらキリスト教関係者が事件を起こすとキリスト教に対して非難がわき起こるのですが、それでは、そのほかの凶悪犯罪を起こした犯人が、一般的な日本人として法事仏教・葬式仏教の仏教徒であったとすれば、仏教に対して非難が起こるかどうかを考える必要があります。

 この場合は仏教に対して全く非難は起こらないでしょう。

 なぜなら、仏教と凶悪事件とは関係ないことが誰でも分かるからです。

 それでは今回の佐世保の事件や2年前の塾講師事件がキリスト教と関係があるかといえば、これも実際にはまったく関係ありません。

 キリスト教は、オウムのような反社会的で危険なカルト宗教ではないので、犯行を行った人物の動機にキリスト教が何らかの影響を与えたとは一切考えられないからです。

 それよりも、彼らは、キリスト教の根本的な教えである隣人愛を完全に裏切る行為を行ったわけですから、非キリスト者よりも反キリスト教的な人間であると言えます。つまり、彼らは、今年の漢字にもなった「偽」のキリスト者なのです。

 そう考えると、キリストの教えを守って神に祈り平和と愛の実践に努めている大多数のキリスト者は、今回の事件についてあまり自虐的に考える必要は一切無いでしょう。

 しかし、犯行を起こした彼らの自己中心主義、すなわち人間の原罪と精神的な弱さについてはこれをきっかけに改めて深く考える必要があります。

 また、キリスト者はお互いに、神とキリストのもとにおいて兄弟姉妹の関係を築いているわけですから、いかに出来の悪い者でも、いわゆる「身内」の起こした事件として、キリスト者は、殺された方々、傷ついた方々の魂の平安を祈ることが何より大事であると思うのです。

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トニー北山のチャペルアワー(19)クリスマスの意味

  11月も中旬になると、商店街のショーウィンドゥは、クリスマス・デコレーションで華やぎます。

 赤青のミラーボールや金銀のモール、プレゼントの小さな箱などで飾り付けられたクリスマス・ツリー。その回りには、太っちょのサンタクロースやトナカイの人形などが置かれて、見て歩くだけで楽しい気持ちになります。

 夜になれば、ビルディング毎に趣向を凝らしたイルミネーションが輝き、普段殺風景な街は、とてもロマンチックな雰囲気に変わりますね。

 若者たちは、恋人と過ごすクリスマスの夜の計画を練りだし、パパやママは、子どもへのプレゼントに頭を悩しはじめる。独り者だって、新作ロードショーや新作ゲームのどれを選ぶか情報誌を買い求める。

 このシーズンならではの楽しみですね。 

 皆様は今年のクリスマスをどのようにお過ごしになるご予定ですか。

 クリスマスとは、ご存じのとおり、イエス・キリストの誕生を祝う日です。

 それでは、なぜ、イエスの誕生を世界中でお祝いするのでしょうか?

 アル中だったジョージ・ブッシュを回心させたことでも有名な、アメリカで最も尊敬されている宣教師、ビリー・グラハムが、当時西ドイツのケルン市の市長だったアデナウアーと会ったとき、二人でイエスの復活について話し合ったそうです。

 アデナウアーは、のちに西ドイツの首相となり、長年対立していたフランスとの和解のためにヨーロッパの統一の実現に尽くした政治家で、ドイツで尊敬を集めた政治家でした。

 二人が会ったとき、アデナウアーはグラハムの目をみつめて、あなたは、救い主イエスが死から復活したことを信じていますか?と聞き、グラハムが「もちろんです」と答えると、アデナウアーは「グラハムさん、イエスの復活以外、私はこの世で何の希望も知りません」と答えたそうです(リー・ストロベル『それでも神は実在するか』)。

 僕が思うに、日本人はある意味刹那的で、過去のことはともかくとしても、将来のことを考えて思い悩むよりも、現在、今のこの瞬間の感情や生活を充実させて生きることで良しとしている傾向が強いように思います。要は、「死んだら終わりだから生きている今を楽しもう」という思考法式です。

 これに対して、アデナウアーがイエスの復活以外に希望を見いだすことが出来ないと述べたことはおそらく、死によって無となる人生であれば絶望しか無い、と考えたからであって、これは、自分の存在や人生の意味を考えたときにぶつかる巨大な壁なのだと思います。

 この壁は、命に限りのある人間であれば万人がぶつかる壁であって、刹那主義の人にとっては、この壁は絶対に乗り越えられないから、それはそれとして、その壁のことは考えないことにして人生を過ごすように決めていると僕は思いますが、その一方、深く考える人は常にその壁が頭から離れられなくなっているのでしょう。

 しかし、キリスト・イエスが復活したのであれば、イエスはその壁をうち破り、死から勝利して永遠の命を得たのであって、そこにわれわれもキリストに倣ってその壁をうち破ることができるわけです。

 だからこそ、アデナウアーは、自分はイエスの復活以外、この世で何の希望も見いだせない、イエスの復活こそが自分の生きる希望である、と確信を持って述べたのでありましょう。

 そのような自分に生きる希望を与えてくれたイエスがこの世に生まれ、そのイエスに従う僕となったキリスト者としては、クリスマスは特別な意味を持つ日なのです。

 これが僕の考えるクリスマスの意味です。

 それでは本当にイエスが復活したのか、と問われれば、理性的に状況証拠をみれば、そう考えることが妥当だと僕は思っています。(詳しくは、チャペルアワーの第8~10回をお読み下さい。)

 そこで、これからクリスマスまでは、クリスマスのいろいろなお話を申し上げたいと思います。

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トニー北山のチャペルアワー(18)今日はハロウィン

071027_11240001  今日の夜はハロウィンです。明日11月1日がカトリックでいう「万聖節」、すなわちすべての聖人を想起し祈りを捧げる日で、ハロウィンは、その前夜という位置づけでしたが、プロテスタントが主流のアメリカに伝わったときに「万聖節」の意味合いが薄れ、独立したお祭り騒ぎの日になったようです。

 アメリカで「万聖節」よりもハロウィンの方が大々的になったのは、カトリックでは毎日がいろいろな聖人の日に定められて、その聖人を祈念する行事などもあるのですが、プロテスタントだと、聖人などという聖書に記載の無いことはあまり重視されなくなり、その一方で、パーティ好きの彼らにハロウィンがそのネタとして受けたためでしょう。

 ハロウィンはもともとキリスト教とは関係のない、古代ケルト人の風習だったようです。古代ケルト人にとって新年は11月1日、10月31日は大晦日にあたり、大晦日の夜には悪霊が現れるから、それから身を守るために怖い格好に変装したり、カブをくりぬいてロウソクを灯したりしたようです。

 現代において、カボチャで怖い顔を彫るのも魔除けの意味があって、怖い顔で悪霊を怖がらせて退散させようという、魔除けのおまじないが残ったものですね。

 日本でも、大晦日になるとなまはげや夜行などという妖怪が現れる伝承や、それを封じるまじないなどが残っていますから、どこでも年の終わりというのは終末的な恐怖感に襲われるのでしょうか。

 それに、日本や中国では、もともと暦の新年は一陽来復の冬至、すなわち旧暦の11月中(15日目)から始まっていましたので、この点もケルト的というか、古今東西の人類に共通の感覚ですね。

 ところで、ハロウィンはしばらく前の日本では全く知られていませんでしたが、ディズニーランドの秋のイベントとして「ハッピー・ハロウィン」が恒例になって以来、儲けのネタとしてお店でさまざまな商品が出回り、一般に知られるようになりました。

 僕にとってハロウィンは、子どもの頃に読んでいた Peanuts に登場するカボチャ大王の思い出とともにあります。カボチャ大王は、チャーリー・ブラウンの親友のライナスが信じるカボチャの王様です。

 ライナスは、ハロウィンの夜、カボチャ大王がカボチャ畑から飛び立つと信じていて、その瞬間を見ようとちゃーりーとともにカボチャ畑で張り込みますが、夜になると眠気が襲って、どうしてもカボチャ大王の姿を見ることが出来ない。この繰り返しに少しづつバリエーションがついた話が、毎年、ハロウィンの時期になると、Peanuts のテーマの一つに登場してくるのです。

 カボチャはアメリカ大陸が原産の冬に美味しい野菜です。

 ハロウィンがアメリカに渡った際、カブに替わってカボチャが登場しました。もともと大晦日の風習だったハロウィンの主役にカボチャが抜擢されたのは、新年を意味した冬至に冬至南瓜を食べる日本の風習ともどこかつながっていて、これもまた人類共通の風習の一端を現しているように思えます。 

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トニー北山のチャペルアワー(17)「三位一体」って何?

 「三位一体(さんみいったい)」っていう言葉は、日常的に「3点セット」、「3つのうち、どれが欠けてもだめ」という意味でよく使われます。特に政治家の先生とか社長さんとかが、なにか施策を公言するときには用いるようです。

 でも、これは本来、キリスト教の教義の中核をなすものです。

 三位一体は、英語では、the Trinity といいます。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの「トリニティ」です。

 ホーンビーの英英辞典によりますと、

  the Trinity, the Union of the Father, the Son, and the Holy Ghost in the Divine Being

三位一体とは、神における父と子と聖霊の3つの結合と定義されています。

 父と子と聖霊は、それぞれ、ペルソナ、位格、神の存在様式、と呼ばれています。ペルソナは、英語のpersonです。 

 ここでいう父とは、神の第1位格である神そのもの、子とはイエス・キリストのことで、神の第2位格、聖霊とは、この世で働く神の存在で、神の第3位格。それぞれ3つは同じ神がお現しになっておられる3つの別の姿なのだ、というのが三位一体の教義なのです。

 まあ、ここまでは難しい話ですが、煎じ詰めて言えば、三位一体とは、神もイエス・キリストも、聖霊もすべて神であるという意味です。今風に言えば、キリストも聖霊も神の化身でだということでしょうか。

 化身という話は横に置くとして、三位一体は、聖書の正統な解釈の結論なのだそうですが、僕はまだちょっとそのからくりがよく分かっていません。僕にとっては、まだまだ研究が必要なテーマです。

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トニー北山のチャペルアワー(16)宗教の定義

 報道によると、長野の紀元会という神道系(?)の新興宗教団体で、信者の方が集団暴行を受けて亡くなりました。なんでも反省会の中で十数人という多数に殴る蹴るの暴行を受けたようです。

 こういう事件が報道されるたびに、僕は、似非(えせ)宗教団体は怖いと思います。

 ただし、ここでは、「似非」というのがポイントで、僕は、本当の宗教団体とは似て非なるもの、似せて異なる団体を言っています。

 本当の宗教とは何か?

 「宗教」の意味を広辞苑で調べると次のように書かれています。

 「宗教:神または何らかの超越的絶対者、或いは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事。また、それらの関連的体系」

 しかし、この定義だと意味が広がりすぎて、何でも宗教になってしまいます。

 現世利益を求めるだけの団体も、それを教祖が「神聖」なものだと言えば、それだけで宗教になってしまいますし、冒頭の宗教団体が販売している「紀元水」の商売も、神聖であるかぎり、立派な宗教になってしまいますね。

 おそらくこれは、信仰を持っていない学者が、日本の中で「宗教」を自称しているものをできるだけカバーして定義しようと考えたから、こんな「何でもあり」の定義になってしまったのでしょう。

 そこで、伝統と定評のあるホーンビーの英英辞典でreligionを引くと次のようにありました。

 Religion : belief in the existence of a supernatural ruling power, the creator and controller of the universe, who has given to man a spiritual nature which continues to exist after the death of the body.

宗教:人間に肉体の死の後に存在し続ける霊的な本質を与える、宇宙の創造者かつ支配者としての超自然的な権威の存在に対する信仰(確信)

 これは非常に分かりやすいですね。これこそ宗教の定義です。皆様の中には、非常にキリスト教的な定義だと思われるかも知れませんが、仏教でも死んだら天国へ行くのですから、この定義にあてはまります。

 そして、ホーンビーのこの定義であれば、現世利益だけを追求する教団や水の販売会社が隠れ蓑につかう「宗教」は宗教ではなく似非宗教であることがお分かりになると思います。

 日本人の中には、「宗教が怖い」という人は多いですが、性急にそう判断するよりも、それ以前に「宗教とは何か」を考えるべきだと思います。

 宗教とは、宇宙と世界の創造主である神(あるいは仏)の存在と、人間の死後の霊的な生への確信としての信仰であって、それ以外のなにものでもありません。

 長野の紀元会でリンチ殺人が起きたことは、時津風部屋で若力士が殴り殺されたのと同じ構図です。

 長野の状況はまだ分かりませんが、時津風部屋では、同質の集団(ほんとうは同質と思い込みたいだけ集団でしょうが)の中で、ある人が異質な行動に出た、それに対して、ほかの構成員がそれを責め立てた。彼らは、異質な行動を取った人を排除しようとしたわけではなかったのでしょうが、そのような行動を取った人の中にある異質な部分を排除しようと考えた。それで「焼きを入れ」、「かわいがり」をして、その人を死に至らしめたのです。

 このようなことは、同質的な集団、もしくは団体主義、全体主義で閉鎖的な集団であれば、新興宗教団体や相撲部屋に限らず、どこでも起こりうることでしょう。

 それでも、特に、新興宗教の場合には、信者の方が盲目的になることが想像できるので、そんな問題が起きる可能性は高いように思われます。だから僕は閉鎖的な集団とともに「似非宗教は怖い」と考えます。

 だからこそ、宗教については、目新しく派手な新興宗教よりも数百年、千年の風雪に耐え抜いた伝統ある世界宗教をまずは研究すべきだと僕は思うのです。

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トニー北山のチャペルアワー(第15回)イエスのキリスト教とノーのキリスト教

 キリスト教にはいろいろな教派がありますが、たまに変なキリスト教があります。

 それは、イエスではなく、イエスとは全く異なる別の人、たとえば、日本人の権助さんという人が日本で「権助キリスト教会」という名の宗教法人を運営していいて、この主宰者の権助さんが、イエスはキリストではない、自分こそキリストである、あるいは、イエスもキリストだが、自分もキリストだ、という教義を唱えている場合です。この場合の「権助キリスト教会」は、全くキリスト教の教会ではありません。これは「権助教」という完全に別な宗教であって、権平さんは、「キリスト」という名称を使うべきではありません。自分でなにか「キリスト」とは異なる、救い主の名前、たとえば「お救い様」というような名前をつけて、「権助お救い様教会」などと改称すべきです。これはキリスト教の呼称の侵害にあたります。キリスト教とは、あくまでイエスをキリスト=人類の救い主として受け入れる信仰なのです。

 また、イエスをキリストとする教派でも、たまに困った教派があります。

 それは、「イエスを信じないと地獄に落ちる!」と脅しすかしを行い、そのようなパンフレットを町で配ったり、家を訪問して、自分の教会に勧誘したりする団体です。

 本当のキリスト教、古い言葉でいえば、「真正のキリスト教」は何より、個人の自由意思を重んじていて、決して人を強制しません。それは、チャペルアワー第12回(3つの自由)のところで述べたとおりです。逆に言えば、強制したり、脅迫めいたりするものは、真正のキリスト教ではありません。それに、福音書によれば、イエスを信じるものは「死んでも生きる」とはありますが(ヨハネ11.25-26)、それでは、信じないものは地獄へ落ちるのかといえば、そんなことは述べられていません。福音書によれば、地獄に堕ちるのは、同朋を『ばか』とか『愚か者』と呼ぶなど、悪い行いをする者なのです(マタイ、5.22)。

 教会、とくにプロテスタント系の教会の教派は世界中に無数にありますが、それは、個人が直接、聖書を研究し、神に近づく自由を認めることから必然的に生まれたものですが、そうなると、教会の主宰者も人間ですから、自由をはき違える人も出てきて、いろいろな解釈をし出し、あげくの果ては、キリスト教を唱えながら、イエスから遠く離れてしまっているものも出ているのです。

 こういう変な教会や困った教派は、YES(是)のキリスト教派ではなく、NO(否)の教派ですね。

 その点、カトリック教会は教義も一枚岩で分かりやすく、安心できます。

 プロテスタントは、個人の自由を重んじるので、その分個人はその自由を行使する上で責任(キリスト教に対する研究責任、イエスの教えから離れない責任)を負っているのです。

 日本において、キリスト教はなじみが薄いために誤解が多いのですが、その上にこんなNOの教派もあるので、なおさら、一般の人には理解されません。

 だから、何となくキリスト者は仲間同士で閉じた社会を作っているように感じます。

 しかし、まじめなキリスト者や求道者は外に向かって大いに発言すべきです。そうでなければ、日本社会において、キリスト教に対して、いつまでたっても誤解や偏見は解けないでしょう。

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